『或る凡庸な一生』『或る一生の行方』後記
狂音文奏楽『文豪メランコリー』を観て書いた二作品『或る凡庸な一生』 と 『或る一生の行方』について。
注:二次創作とも読めるお話です。(特に『或る一生の行方』の方は)
私は音楽畑の人間である。
自分の音楽を残すこと以上に、“遺したい先人の音楽”がこの先の未来で途切れないことを願っていて、その為に自分自身の音楽を捧げたいとすら思うことがある。
そういう、音楽畑の人間である。
音楽でも文学でも、芸術というものは一つ、人間の系譜にもなるものだから、先人を見て心奪われたその次が生まれなければ、何時しか途絶えて失われてしまうのだ。
太宰が芥川に言った「あなたがいたから俺がいるんです」というのはまさにそうで、芥川龍之介がいたから太宰治が生まれ、太宰治がいるから芥川龍之介がいたことも遺される。
それこそ、夏目漱石や漱石の親友の正岡子規、与謝野晶子の夫の与謝野鉄幹、──文メラには出てこないけれど、幸田露伴、尾崎紅葉、北原白秋、佐藤春夫、井伏鱒二など──そういった人たちも、遺したいと思わせる力に慕う弟子がいて遺そうとする後人がいて初めて、文学という系譜の歴史の糸に載り、魂を預けた文学という世界の息を伸ばすことになる。
『文豪メランコリー』という作品を見てしばらくし、ようやく飲み込めたかと思えた時にふと、文豪と呼ばれる彼らが蘇るという意味を、彼らを「文豪」と呼ぶ意味を考えた。
〈おれ〉の人生を演出できるのは確かに〈おれ〉だけであるのだが、彩るのは〈おれ〉だけではない。
文豪たちとは、今の〈おれ〉の人生を彩ってくれる存在であったなら、〈おれ〉が他の者にも与えたい彩りであったなら、──この“彩り”は、またの名を“光”ともいうかもしれないな──文豪と呼び何度でもこの世に蘇らせることで、彼らを後人にも遺していくことができるのではないか。
〈おれ〉は作者の私の事でもあり、読者のあなた様の事でもあり、私たちのまだ出会っていない後人たちの事でもあるかもしれない。
先人を追うという形で“失われてほしくない先人の形”を目指す未来の誰か。
その先でいつしか先人とは別のオリジナルを確立できるかもしれないしできないかもしれない、それはその誰か次第であり運次第でもあるのだけれど、少なくともその誰かによって先人の魂は継がれてゆき、芸術はまた一つ息をし続けることができる。
何かに衝撃を受けた時、感情を言葉として吐き出しがちな私にとって、それは言葉を失うことと同じである。
『文豪メランコリー』という作品に衝撃を受けた。
それは、“失われてほしくない先人の形”だった。
文豪の文学に衝撃を受けるのは今に始まったことではない。
失われてほしくないのは、磯貝龍乎という表現だ。
あの場で創り出された磯貝龍乎という文学の世界だ。
失わせたくなく、書いた。
誰かこの世界を継いでくれ、と。
それが〈おれ〉である。